「竜崎。先程言われていた資料をお持ちしました」
扉を二回ノックしても返事はなかった。ワタリは再度ノックを繰り返そうとして止まり、慎重に扉を開く。
モニターに明かりが反射しないように光量を控えめにした室内には人の気配は感じられなかった。
「おや。今日は皆様もうお休みになられたのですね」
兎に角資料をデスクの上に置いておこうと足を踏み入れたワタリは、扉の横に置かれたソファに人影を認めて歩みを止めた。
「・・・・居られたならそう言って下されば・・・」
その人影は、彼がこの世で最も信頼し慈しんできた人物で。返事もしないとは何か気に入らない事でもあったのだろうかと首を傾げながら近付く。
身じろぎ一つしない人物の名前を呼ぼうと口を開いたその時、はじめに人の気配を感じなかった理由を知り軽く口元を綻ばせた。
「さすがにお疲れのようですね」
大量の書類とお菓子に埋もれるようにして座っている人物の肩はゆっくりと規則的に上下しており。
一時の休息を求めて夢の世界へ旅立っている最中である事を示していた。
Oath
恐らく本人に寝るつもりはなかったのだろう。いつも通りの座り方に無造作に投げ出された手には一冊のファイルが握られたままであった。
膝の上に頭を凭れさせてくうくうと小さな寝息を立てている竜崎の肩には一枚の背広が掛けられている。
「これは多分夜神さんのでしょうね」
年季が入っているが綺麗にプレスされ、大切に使われていた事が窺えた。
毛布が近くに無かった為代用したらしい不器用な優しさは如何にもあの刑事らしく、今はその厚意に甘えてそのままにしておくことにする。
寝室へ行くよう促すべきだろうか。
暫く逡巡するも弾き出した答えは、否。
ここで起せば彼がそのまま仕事へと戻ってしまう事は火を見るよりも明らかだ。ならばこのまま少しでも休ませたほうが良い。
転寝している事に気付いておきながら様子を見ていた事に対して、彼が許してくれる範囲はおそらく1時間弱。いや直ぐに温かい紅茶と最近気に入っているらしい苺のタルトを差し出せば1時間半はいけるかもしれない。
瞬時にそこまで考えを巡らせたワタリは、取り合えずは周囲に散らばった書類を可能な限り音を立てないようにして纏める。
膝を付いてテーブルの下に滑り込んだ紙を手に取り、ふと上を見上げると穏やかに眠る彼の顔が映った。普段は真っ直ぐで逸らされる事の無い瞳が隠れているせいだろうか。見慣れているはずのその顔は、酷く幼い表情をしていた。
自分が見出し、今は「世界の切り札」とまで言われるほどに成長した彼は、しかしまだ二十歳そこそこの青年なのだ。
その事実を改めて実感する。
実感すると同時に、ワタリは胸の奥にちくりと小さな痛みを感じて立ち上がった。
決して大柄というわけではない総一郎の背広。それでも彼には大き過ぎる。すっぽりと埋まった彼は二十代の青年にしては細い。白い肌がその細さを余計に際立たせているのだろう。
与えられた事件を解決する事にのみ興味を示し、そのために自分の身に危険が及ぼうとも躊躇する事はない彼。
いや。彼は自分が「生きている」事で多くの人間が救われる事を知っている。故に無駄に自分を危険に晒したりはしない。可能な限りは自分の身を守ることも考えてはいるだろう。
ただ、それは。
彼が、彼の為に生きているという意味ではない。
彼が、彼の為に生きたいと思っているわけでは、ないのだ。
僅か8歳で大きな事件を解決した彼。その頭脳を目の当たりにした自分は、このまま彼を世間に埋もれさせてしまうのは惜しいと思った。正直に言えば、発明家としての血が騒いだのだ。「L」という、最高の発明品を作る事が出来るかもしれない、と。
身寄りの無かった彼を連れて帰り、ありとあらゆる知識を詰め込んだ。乾いた土に染み込む水の如くに次々と吸収していく彼に、今度は実際に起きた事件に当たらせた。思った以上の結果を出した彼に、あの時の自分は酷く満足していた事も確かだ。
今思えば、何と愚かしい。
自分は、自分の欲の為に彼の人生を奪ったのだ。
苦い思いに、きつく眉を寄せる。
見下ろした彼はいまだ穏やかな寝息を立てており、それが一層ワタリの心を締め付けた。
私は、貴方に何と重い荷物を背負わせたのか。
貴方は辛くないのか。苦しくないのか。
「L」という名の為に。「エル」として生きられないことに。
さざ波の様に押し寄せる後悔と自責の念。
自分は出会うべきではなかったのかもしれない。そうすれば彼は、もっと穏やかで幸せな人生を送れたかもしれない。
それでも。
最早彼から離れるなど、今の自分には考えられない。
次第にワタリは自らの思考の迷路へと嵌っていく。どれほど彷徨っても出口は見つからず、胸の痛みは増していくばかりだった。
「竜崎・・・・L・・・・私は、間違っていたのでしょうか・・・・」
書類を握り締めた手と同じに震えた声が唇を割って滑り落ちる。
それに自嘲的な笑みを零したワタリは突然強い力で腕を掴まれ、ぎくりと身を竦めた。
黒いスーツに包まれた腕に絡められて更に白さを際立たせた細く長い指を目で追っていくと、その先には対照的に漆黒の瞳が見開かれ、ワタリをじっと見上げていた。
「ワタリ。お前は、間違ってない」
薄い唇から紡がれた言葉は何の迷いもなく。
真っ直ぐに向けられた視線はいくらかの険を含んでおり、彼が不機嫌である事を示していた。
いつもならば、その瞳を何の気負いもなく受け止める事が出来るのに。
心に巣食った闇は炎を内に秘めた黒を受け入れる事を拒み、ワタリは僅かに視線を逸らした。それが彼の逆鱗に触れたらしい。更に強い力で腕を引かれ、よろめいたワタリを睨み付けて口を開く。
「・・・それとも、ワタリ。お前は私を侮辱する気か」
「・・・!竜崎。何を・・・」
思いがけない糾弾にワタリは細い目を一杯に見開いた。
深い知性と冷静さを失わないはずの瞳はぎらぎらと鮮烈な輝きを放ち、如何なる弁明をも受け付けないと語っていた。
「お前は私を何だと思っているんだ。自分の意思も持たないただの操り人形か?命令され従うだけの機械か?お前の発明品の一つなのか?」
低く、静かに。連ねられた言葉の奥に、冷たい炎がちらちらと踊る。
逸らされる事の無い、逸らす事を許さない、強い瞳。
「違う・・・。違います、L!私は。私は、ただ・・・」
激しい怒りにさらされたワタリは懸命に首を振った。
「私はただ、貴方の人生を奪ってしまったのではないかと・・・!」
腕を掴んだままの手の上に、もう片方の手を重ねる。
体温の低い彼の手は、怒りの為か別の原因の為か更に冷たさを増しており、ワタリは少しでも熱を分け与えようと力を込めた。
不意に彼の顔がくしゃりと歪む。
あれだけ激しかった怒りの感情は霧散し、寂しげに笑う青年がそこに居た。
「それこそが間違いだよ。ワタリ」
重ねられた手の上に頭を垂れて、終ぞ見た事の無い彼の感情の変化に戸惑いを隠しきれていないワタリに、吐息混じりの笑みを漏らす。
「私は、『私の為』に。お前の期待に応えたいんだ」
「私は、お前が喜んでくれたらそれが一番嬉しい。お前が居てくれたら、それだけで幸せなんだ」
お前は私の事なら何でも分かっていると思っていたんだが。矢張り言葉とは偉大だ。
そう言って伏せた顔を上げた彼が笑う。
その笑顔に、ワタリは遠い昔を思い出す。
そうだ。いくら8歳の少年と言えど、当時からあれだけ聡明だった彼が請われたからと言うだけで黙って付いてくるわけが無い。
彼は、彼の意思でこの道を歩む事を決めたのだ。
それを自分はなんと身勝手な想いで汚そうとしたのだろうか。
先とは別の意味で自嘲的な笑みを浮かべたワタリに、彼は笑みを収め軽く首を傾げて見上げてくる。
初めて会った時から変わらない。酷く純粋でそれ故に強い瞳。
強い瞳はそのまま意志の強さを伝えてくる。次に彼が紡いだ言葉は、それを証明するものだった。
「だから、後悔などするな。後悔するぐらいなら、私に誓え」
懇願ではない。そうすべきであると、強制する言葉。
けれど、これ程までに安らぎと慈しみを感じさせるものは他に無い。
「何があっても、私の傍に居ると」
深く頷くと、彼は一層晴れやかに笑った。そしてワタリが返した笑みも穏やかな。
出会いがどうであっても。初めの想いがどんなものであったとしても。繋がれた絆は真実であり、力であり、互いの拠り所である。
そう。彼の言う通り、自分は誓おう。
何があっても。例え自らの命が絶たれようとも。
自分は、彼の傍に居るという事を。
「ところでワタリ。・・・・・・・・咽喉が渇いた」
力なく呟き爪を噛む彼に静かに微笑んだワタリは、予定していた温かい紅茶を入れるべくその場を後にしたのだった。
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